映画『泣き虫しょったんの奇跡』が上映され、プロ棋士・瀬川昌司さんも嬉しいでしょうね!
サラリーマンからプロ棋士へと転身した瀬川昌司さんの偉業は、棋界の制度を変えたことから、『将棋維新』なんて言われました。
そんな瀬川昌司さん、実はお父さんなどの家族に支えられたり、小学校5年生の時の担任だった苅間澤大先生との出会いがあったからこそ、今があるそうです。
その話が感動的で、個人的には涙してしまったので、紹介したいと思います。
瀬川晶司の父や兄、家族は?
瀬川昌司さんは神奈川県横浜市出身で、2人の兄がいる、末っ子です。
お兄さんから、将棋のルールは教わりました。
小学校で将棋のブームが起こっていたから教えてもらったのだとか。
ただ、最初はそんなにハマらなかったそうで、将棋にハマるようになったのは、小学校の苅間澤大先生と同級生でライバルになってくれた、渡辺健弥くんのおかげでした。
瀬川昌司さんは幼少期、自信がなく引っ込み思案な少年で、兄の後ろをついて回るような男の子でした。
しかし、苅間澤大先生が瀬川昌司さんが将棋が強かったことをとことん褒めてくれたから、自信を持つことができ、性格が変わっていったそうです。
当時のことを、瀬川昌司さんは嬉しそうに語ります。
将棋はしょせん遊びですから、先生によっては「将棋もいいけど勉強もちゃんとやれ」と言う人もいると思うんですが、苅間澤先生はそういう考えではなくて、手放しで褒めてくれた。好きなことに打ち込むのはとてもいいことだって。褒められたり、将棋をやる自分を奨励してもらったりしたことで、ますます将棋が好きになっていったんです。
やっぱり、子どもの頃の理解者ってすごく大事ですよね。
子どもの頃って、親や大人の言うことを、なんとなく受け入れてしまうことって多いから、肯定的なことを言ってもらえたり、認めてもらえることって、すごく大事なことだと思います。
そして、同級生でライバルの渡辺健弥くんのお父さんに『港南台将棋センター』という将棋道場に連れて行ってもらい、いつしかプロ棋士を目指すようになりました。
そして、プロ棋士になりたい、と両親に話しても反対されませんでした。
瀬川昌司さんの父親は『好きなことをやるのが一番』という考えだったのだとか。
やっぱり、親は自分とってよく分からないこと、知らないことだったとしても、子どもがやりたいことを否定しちゃダメですよね。
子どもには無限の可能性がある、なんて言いますが。
やっぱり自分の人生経験で子どもを理解できると過信したり、こうすべきだ、と無理矢理言うことを聞かせるのは、傲慢だと思います。
というか、子どものため、とか言いながら、全然子どものことを考えていないと思います。
改めて、幼少期の大人の存在って大事ですね。笑
瀬川昌司さんのお父さん、個人的には尊敬します。
瀬川昌司の恩師の奇跡的な話が泣けると話題に?
瀬川昌司さんの小学校5年生の恩師、苅間澤大先生は、瀬川昌司さんがどん底のときに心の支えになってくれました。
それは、プロ棋士になれるかどうかの編入をかけた戦いの時。
プロ編入試験は『6人の棋士と戦って3勝すればプロ入りを認める』という条件でした。
精神的な余裕のためにも、なんとしても勝ちたい第一戦。
しかし、結果は敗北。
プロ棋士ともなれば、負けても気持ちを切り替える術は心得ていますが。
この時の瀬川昌司さんはプロ編入試験を多くの人の協力、応援で実現させたこともあり、どうしても気持ちが異常なほど落ち込んでしまった。
というか、恐かった。
このまま一勝もできなかったら、どうしよう、という恐怖にとらわれてしまった。
そんな時にドラえもんのイラストのはがきが届きます。
『大丈夫。きっとよい道が拓かれます』
小学校5年生の恩師、苅間澤大先生からでした。
涙がとめどなく溢れて、思い出したそうです。
小学校時代、将棋を楽しんでさしていた頃のことを思い出して、ようやく不安から解放されたそうです。
そして、見事、プロ棋士の編入試験に合格。
プロ棋士・瀬川昌司さんの誕生秘話ですね!
個人的には、マジで涙流すほど感動しました。笑
まとめ
瀬川昌司さんの家族のことや、恩師の苅間澤大先生のことを紹介させてもらいました。
やっぱり、当人の努力ももちろん大事ですが、周りの人たちの支えや応援って大事ですね。
人生という大きな視点で考えると、努力よりも大切かも、とすら思えます。
子どもに対しては、とことんやりたいと思えることを見つけたり、サポートしてあげられる親でありたいですね。
瀬川昌司さんの例でいっても、様相期に将棋にとことん打ち込んだ、ということは、プロ棋士にならなかったとしても、人生の財産になったと思います。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました!